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カルマとは?

カルマというサンスクリット語は仏法用語では業(ごう)と訳されています。カルマ、業、どちらにしてもおどろおどろしく聞こえるかもしれませんが、現代語に直せば「行為」という、何ともあっさりした意味の言葉なのです。

ただし、行為と言っても身体的な行為だけではなく、口で言った事から心で思った事までの全てを含む、非常に広い意味での行為のことなのです。これを仏法では「身口意の三業(しんくいのさんごう)」と言います。

よく、人の意識は氷山に例えられます。氷山は海に浮かんでいますが、その90%が水面下にあることから、人が自覚できる顕在(表層)意識はほんの一部であり、そのほとんどが自覚することのできない潜在意識だと言われているが故です。

しかも人はその潜在意識に支配されており、なかなか意のままにならない人生を歩んでいるのです。

「いや、そんなことはない、自分は自分の思いのままに人生を切り開いている」と言い切る人もいるでしょうが、実はそのような思いもまた潜在意識によって思わされている部分がないとは言えないのです。

「何が何だか訳が分からない」と言われてしまいそうなので、仏法で説かれている九識論(くしきろん)を紹介しながら潜在意識の不思議を理論立てて解説してみたいと思います。

九識論は、意識を九つの層として設定し、それを掘り下げていく考え方です。

外界と接触し情報を吸収していく一般に言われるところの五感を1〜5識として耳識、鼻式、舌識、眼識、触識と呼びます。そして、その情報を取りまとめる6識目を意識と呼びます。

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ここまでが通常、自覚することのできる表層意識となります。その下からはいよいよ潜在意識の世界に入ることになりますが、7識目はマナ識と呼ばれます。ここは本能に支配された我欲の渦巻く意識層です。良く言えば自己保存を司っている層と言えますが、ここから発せられる欲望を意識の力(理性)で抑制したり、向上心に転化させたり、芸術や愛に昇華させたりしながら人は生活しているのです。時として抑制が効かなくなると他人や自分を傷つけてしまうことにもなります。

さて、その下の8識目はアラヤ識と呼ばれます。実はマナ識の衝動の根本原因はここにあるのです。ここには先ほど述べたカルマ、つまり身口意の三業の全てが、まるでDVDに録画したかのように鮮明に記録されているのです。アラヤとは蔵と言う意味です。ちなみに、ヒマラヤというのはヒマ(雪)がアラヤ(貯蔵)された山という意味になります。

このアラヤ識に記録されているカルマは、生まれてから今に至る迄のものは勿論、前世、更にその前世と何十回、何百回、もしかしたら何千回と繰り返してきた数多くの人生で行なってきたこと全てのカルマなのです。

更に言えば、人間でなかった頃、つまり植物、動物、もしくは他天体の生命体だった頃のカルマも全て含まれます。カルマはただ記録されるだけではなく、そのカルマが因(いん)となってその人の今を作っています。それは、生命の傾向性とか宿命と言ってもいいかもしれません。そしてこれからどのようなカルマを積み上げていくかでその人の未来が決まってくるのです。つまり、自らが蒔いた種は自らが刈り取ることになるのです。

ここまで言ってしまうと生命の永遠性を信じられない人は反発を感じられると思うのですが、ひとつの仮説として捉えて頂いても結構ですのでもうしばらくお付き合い下さい。

さて、その人の宿命を作る原因となるカルマ、つまり身口意の三業には、善業(ぜんごう)と悪業(あくごう)があります。

いったい何が善で、何が悪なのでしょうか。世の中には一方の側から見れば善でも別の側から見れば悪ということはいっぱいありますし、文化や価値観の違いで善悪の捉え方は随分違ってくるのですが、カルマに於ける善悪は、生きとし生ける者の共通項としてある「生命」に基準をおくことになります。

その判断基準は生命に対する働きかけの方向性によります。生命を慈しみ、可能性を開き、躍動させていくといった方向性を持つ行為が善業であり、生命を冒涜し、可能性を塞ぎ、押し込めようとする方向性を持つ行為が悪業となります。

具体的に言えば、人の苦しみを癒し、希望や喜びを与えていくことは善であり、人を苦しめ、希望を奪い、悲しませていく行為は悪なのです。動物や植物、河川や海に対しては、保護や浄化をしていくことが善であり、乱獲や汚染をしていくことは悪なのです。

全てのカルマは天に唾したように、全て自分に返ってきます。人を苦しめればやがて自分も同じような苦しみを味わうことになるのです。それは何故かと言うと、全ての生命は各々が独立しているように見えても実は「ひとつ」だからなのです。

九識論では九番目の究極の意識層をアマラ識と呼びます。ここは無限の広がりとエネルギーを持つ、全ての生命の源であり、全ての生命は動植物も含めてここでつながりを持っているのです。言い換えれば、潜在意識の究極の世界には自他の区別はなく、個々の生命は大宇宙生命という大海原の水面に起っては消える波頭のようなものなのです。

実は「全てはひとつである」ことを知ることこそが、我々発展途上にある生命体の目的であり、それを生命レベルで気付かせようとして大宇宙生命はカルマを自分に返してくるのです。

単純に捉えれば「悪いことをすれば罰が当たる」という見方もできるし、そのように言う人もいますが、それはちょっとレベルの低い見方だと私は考えます。宇宙生命の本質は、無条件の愛であり慈悲ですから、裁いたり罰したりするということはありえません。

悪業の代償としての苦しみは宇宙生命が与えた罰ではなく「自らの行ない」がもたらした反作用であることを知らなければなりません。そしてそれは本人に気付きをもたらし、成長を促していく為の警鐘でもあるのです。

その警鐘に気付かず同じパターンを繰り返したり、逃げ回っている限りは何度でも警鐘は鳴り響くことになります。どんな苦難や障害も真正面から受け止めてその中にメッセージを見いだしていくことが大切です。常に感謝と反省の心を持って、善なる行為を積み重ねながら生きていけばカルマは解消され、人としての成長、魂のレベルでの進化が進むことになります。

前世の負債まで背負わなければならないと言うことに対しては納得のいかない人も多いと思います。「いくら自分の前世でも覚えていなければ他人の人生と同じじゃないか、なんで人のケツを拭かなきゃならないのだ!」と言いたくもなるでしょう。しかし人は過去を覚えてないからこそ生まれる度に様々な個性を持って様々な人生にチャレンジができるのではないでしょうか。それが地球人のシステムなのです。きっとどこかの星には前世を全て記憶している宇宙人がいるかもしれません。

ただし昨今、前世療法と言うのですが、退行催眠で前世にまでさかのぼらせ今生でのトラウマの原因をそこに見つけて劇的な治癒を得ると言う例が数多く報告されています。ひとつだけ例を紹介しましょう。

過食症で肥満体になってしまった人を退行させてみたところ、過去生では貧困な地域で暮らしており、若くして餓死していたことが分かりました。そのトラウマが今生に持ち越されて「食べられる時に食べておかなければ」という潜在的な強い衝動が強迫観念となり過食症になっていたことが分かったのです。更に「飢餓的な状況は過去のことであり今は心配することはないのだ」ということに対して生命レベルでの気付きが生まれ、過食症は劇的に直ってしまったという症例があるのです。

まだまだ心理学の分野でも異端視されている治療法ですが、このような永遠の生命観に立った治療法が確立されれば、医療の世界は根本的に変わってくるでしょう。過去、現在、未来という三世の生命観でものを考えることが当たり前になる時代がそう遠くない未来にくることを心から期待したいと思います。

気付きは人に成長をもたらします。成長の度合いを量る尺度があるとすれば、それは「共感の広がり度」だと私は思います。

人の幸福を自分のことのように喜べる美しい心根、人が苦しんでいれば自分のことのように胸を痛め、手を差しのべていける慈愛の心。そのような見返りを求めない奉仕は、愛する者の為であれば我々にも出来るかもしれません。その対象をどこまで拡げていけるのかが、人としての成長を量る尺度になるのではないでしょうか。

仏法ではその広がりが森羅万象、生きとし生けるもの全てに及んだ人のことを「仏」と呼びます。「仏というのは凄い存在なんだ」と人ごとのように言うのではなく、「人間というのは凄い可能性を秘めた存在なんだ」と捉えていきましょう。

以上

by mie561106 | 2018-02-12 11:25

「相対的幸福」とは、経済的な豊かさや社会的な地位など、自分の外の世界から得られる幸福である。そんな幸福は、ひとたび環境条件が変われば、いともたやすく崩れ去ってしまうものだ。これに対して、「絶対的幸福」とは、いかなる困難や試練にも負けることなく、生きていること自体が楽しくてしようがないという境涯の確立である。

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